マーサのブログ

絵を描いたり布作品を作っています

神戸市の「ともづな」という文集がある。公募で寄せられた作品が掲載されるが、98年に掲載された「無言館」のエッセイを紹介します。長いですが、紹介します。
無言館」 
昨年のテレビのドキュメントで、長野県上田市に「無言館」の開設を知りました。信濃デッサン館の分館として、戦没画学生慰霊美術館を設立したのです。その主旨が、ぐさりと胸に刺さり、いつの日か訪れたいと心に決めました。尚、現在も彼らの作品を蒐集中で全国を巡っていますが、それは大変なことです。一軒ずつお宅を訪問して主旨を伝え、納得していただくのですが、まだ手元に遺作や遺品を残しておきたいというご遺族もあります。思い切って絵画を預けようと決意されたお宅からは、大事に包装して抱くようにして館へ持ち帰ります。この姿勢を見るだけでも、是非無言館へ行ってみようと心を掻き立てられました。そこへ、今年の夏の新聞紙上に、神戸市三宮のフェニックス・プラザで「無言館」開館記念の展示の報せを見つけました。小さい欄ではありましたが、「無言館」という文字は大きく眼にとびこんできて離れません。
 戦没画学生「祈りの絵」展。約35名の遺作と遺品など百点の展示です。
 私はフェニックス・プラザへ行きました。まっすぐに行きました。まず、一礼してから部屋に入りました。絵画は勿論無言ですが、見る人も無言になっています。一人ずつに感動があるのでしょう。本当に口を噤んで、館内は無言なのです。私は重い無言、深い無言の中を静かに一歩を送りながら、一つ一つの遺作の前に立っていきました。悔しいことも、会いたいことも、すべて無言にした絵が並んでいます。
 昭和二〇年のお正月の自宅前の風景があります。松も日の丸の旗も静かなのに、この門へ帰ってこられなかった学生の絵です。
 母親をモデルに描いた絵。画面全体の暗い落ち着いた色づかいの中で、母親の眼には優しい穏やかな光が宿っていました。
 家族団欒の絵は最後の集いになりました。楽しい和やかな食卓をまん中に残して、学生は出て行きました。
 一枚の薄い画用紙なのでしょうか。押し入れの奥から探し出されたのかと思わせる折り目がくっきりついていて、その部分は色が落ち、長い歳月を物語っています。そこには恋人の姿を描いた強い線がありました。
 恋人と思われる絵は、他にもたくさんありましたが、その中の一枚は未完でした。思いを込め見つめつつ描いた中心の女性に「帰ってきてから続きを描こう」と約束して絵筆を置き、学生は出征しましたが、絵筆は乾いたままになってしまいました。
 別の展示ケースには、戦地からの便りやスケッチ画がびっしりと並べられていました。一つ一つの字や絵をかくときの脳裡には故郷や家族が浮かんでいたに違いありません。その心や思いが滲んでいました。
 「また戻ってくる」という一縷の望みをもって、願いをもって、無言で命令を受けねばならない時代でした。私自身より少し年上の学生さん達だったんだと思うと、私自身の戦時中の状況と重なり合って、そのやるせなさやせつなさ、腹立たしさがぐっと迫ってきます。でも、館主の御努力と思い入れによって、ここに、レクイエムのように遺作が展示されたことで、一つの帰国があったのではないかと思うと、ひきしまっていた唇が不意に開いて「ただいま」と言ったように感じました。戦時下にあって、ぎりぎりの時まで情熱と夢を秘めて絵筆を持てた集中した時間があったことは、あなた達にとって救いと思ってはいけないでしょうか。絵画の中に魂と光が残っています。生命の瞬間が残っています。メッセージという軽い物ではなく、無言の中に閉じこめていた叫びが残っています。
 徴兵令には無言で従い、家族たちも真実の心は語れず無言の声で送り出したのです。恋人も無言で、無言の彼の背中を見つめました。反発できないもどかしさをひっ提げて、振り返ることなく出征していった人達なのです。
 無言には口がないのです。沈黙には意志がありますが、無言には意志はありません。無言とはゼロなのです。それに比して、沈黙にはプラス方向とマイナス方向があるのだと考えつつ、私は歩を進めていました。
 感動には悲喜こもごも、いろんな形がありましょうが、無言館内では全く異なった初めての感動がありました。やるせなさや怒りと愛が波打ってきて、大きな塊を割るような感慨を受けました。この無言のエネルギーに、強烈に打たれたのは私だけではなかったと思います。何故なら、館を去るとき、一人一人が頭を丁重に下げて出て行きましたから。
 テレビのドキュメントの時、絵画を大切に運んでいた女性は、恋人の絵を描いていた学生さんのお孫さんと知りました。現在、この無言館で勤務しておられます。その女性が、スケッチブックを持ち歩いて、おじいちゃんの描いた風景を描きたいという気持ちに、やっとなれたと語ります。絵画を通して、せせらぎのように彼女の中へ故人の思いが流れていったのだと私は思いました。
 私も一礼して館を出ましたが、あまりに緊張感のない街騒だと気付きました。
 勿論、戦争は否定の私です。今もあの頃を思う瞬時があります。そして八月には「原爆忌」「終戦忌」の節目をおろそかにできません。
 戦争を知らない人達も無言館を訪れてみてほしい。それぞれの心に触れたとき、自らの糧の一つが見つかる筈です。希望や夢のあるあなた達の将来の建設のための助言や蘇った短かった生命のエネルギーを貰ってくることができると私は感じています。
 若かった学生達は、ひとりひとり大事に生きよと呼びかけてくるのです。
酒井靖子(私の母です)文
アメリカに転勤したOさんから送ってもらったおひなさんの写真をアップします。前にある小さいのは、「小黒三郎さんの組み木のおひなさま」です。